第4回 「これからの50年に向けて」

世代は移り変わるも、視線の先は同じ未来へ。(ハワイ社員旅行にて、2006年撮影)

2000年代中頃から、ホンヤク社は順調に業績を伸ばし、さらなる成長を遂げる。
2009年(平成21年)には、業務拡張に伴い本社を港区海岸に移転。竹芝桟橋に近い、東京湾を一望するビルにオフィスを構えた原田は、さらに大きな展望を胸に抱く。この海を越えて、拠点を広げたいと考えたのだ。オフィスから東京湾を眺めながら、「この海の向こうには、カリフォルニアがある。そこまで行こう」と、原田は夢を語っていたと言う。

その夢を現実にするべく、原田はすぐに行動を開始する。米国最大の翻訳者協会「ATA(American Translators Association)」の会報誌に企業広告を掲載したのだ。テクノロジーと同様、目標を達成するための労力も投資も惜しまないのが原田のやり方だった。そして、その熱意は結果につながる。広告を目にしたボストンの翻訳会社から、日系企業の訴訟に関する大規模な翻訳プロジェクトが舞い込んできたのだ。このプロジェクトを請け負い、米国での訴訟関連(リティゲーションサービス)の翻訳業務に勝機があると感じた原田は、2013年(平成25年)、カリフォルニア州サンディエゴに⽶国現地法⼈として「HONYAKU USA」を設立する。現地の日系企業をサポートするとともに、ホンヤク社のグローバル展開の拠点としたい、という思いからだった。
「HONYAKU USAを設立したことで、社員に夢と希望を与えられたと思います」と、現代表の原田真は語る。この海の向こうに会社を広げたい、と語った原田の夢が社員のモチベーションをも高めているのだ。

同2013年、グループ会社としていたマンカインド・アソシエイツ、続いてインテック・コミュニケーションズと合併。「ホンヤク社」として統合し、業務を展開するようになる。

HONYAKU USAオフィス内

世界情勢や経済状況の影響を受ける企業は、傍目には順風満帆に見えても、決して存続の危機と無縁ではない。ホンヤク社もまた、オイルショック、バブル崩壊、リーマンショックなど、数々の厳しい状況を経験してきた。原田真がホンヤク社に入社したのも、実は会社経営が厳しい局面を迎えているときだった。学生時代にアルバイトで手伝ったことはあったものの、積極的に経営に関わる気はなかったと言う。しかし、父親の原田毅から「会社の危機だから、手を貸してほしい」と言われ、入社を決断する。ただし、企業存続の危機は回避できたということで、「僕の出番はなかったのですが」と原田真は語る。

いわゆる「二代目」としてではなく、営業職からスタートした原田真は、やがて、日本と世界のグローバリゼーションに貢献したい、という大きなビジョンを掲げるようになっていく。そして、入社から13年後の2016年(平成28年)5⽉、原⽥真が代表取締役社⻑ COOに就任し、原⽥毅は代表取締役会⻑ CEOのポストに就く。

その5年後の2021年(令和3年)10月、原田毅は81歳で生涯を終えた。翻訳、そして日本の国際化に対する情熱は最後まで絶えることはなかった。原田毅の死去に伴い、原⽥真が代表取締役社⻑ CEOに就任する。
その翌年の2022年(令和4年)、ホンヤク社は創業50周年を迎えた。半世紀前、小さなビルの一室でたった一人始めた翻訳会社。その時の「日本にとって不可欠な産業になる」という思いのバトンは、父親から息子へと託されたのだ。

そして現在、これからの展望を尋ねると、原田真は「もちろん、会社を存続させること。社員や翻訳者の生活を守ることが大前提」とした上で、翻訳だけでなく、その前後の工程も含めたパッケージを提供できるようにしたいと言う。たとえば、マニュアルやカタログの多言語展開では、原文を書くテクニカルライティングから、後工程のDTP作業やウェブコーディングなどを一元的に提供できる企業になるのが理想だ。
それは企業としての業務拡大と発展につながるだけでなく、顧客のニーズに応え、最適な提案ができる体制を整えることが目的だ。何よりも、顧客の役に立つ存在でありたい。それは「関わる人を大切にすること」を強みとしてきたホンヤク社のDNAに他ならない。

現CEO 原田真

新型コロナウイルスの世界的大流行を経て、世界はまたしても大きく動いている。「ニューノーマル」という言葉の通り、新しく生まれるものがあれば、変わっていくもの、消えていくものも少なくない。こうした状況の中、ホンヤク社は創業から変わらない誇りと志を掲げながら、時代の変化とともに柔軟に形を変えながら、躍進を続けていくだろう。

2022年現在のオフィスからの眺望。カリフォルニアは見えたか。