50周年を記念して、ホンヤク社の歩んできた道のりを「50年史」として掲載いたします。その道は決して平坦ではありませんでしたが、半世紀にわたり日本の発展を支えてきた、わたしたちにとって誇りに思える道です。当時の写真や資料画像とともに、ホンヤク社の50年をご覧ください。
翻訳とは何か。国語辞典によると「ある言語で表現された文章を別の言語に置き換えること」とある。国や地域が変われば、当然言語も変わる。異なる言語を使う者同士が理解し合えるように、言葉を「置き換えてくれる」のが翻訳者である。歴史をひも解けば、古代メソポタミア文明にはすでに翻訳という作業が存在しており、言語の辞典のようなものがあったのだと言う。海や国境を越えた物品の取引、知識の移転、文化の交流が世界史を作ってきたのだとしたら、その舞台裏を支えてきたのは、翻訳という作業に他ならないだろう。
当然、日本にも翻訳は古くから存在していた。3世紀ごろには、中国へ遣いを送り、貿易や交流を行っていた。鎖国令が敷かれていた江戸時代にも、ポルトガルやオランダから知識や文化を輸入していた。江戸時代後期から明治時代にかけては、アメリカやイギリスとの外交が増え、条約などを交わす場面も多くなっていった。どれを取ってみても、「翻訳」がなければ成立しなかったのだ。
そんな「翻訳」という仕事の重要性に創設者の原⽥毅が気付いたのは、大学を卒業後、外資系食品会社のゼネラルフーズに就職した後のことだ。1960年代、原田は輸出入の業務に携わる中で、これからの日本に必要なのは語学であり、翻訳という産業が要になると確信する。「資源を持たない日本の産業は、海外からの輸入に頼らざるを得ない。そこには必ず外国語が介在する。つまり、海外との橋渡しとなる翻訳は絶対的に必要な仕事になるはずだ」と感じたのだと言う。外国文学に触れ、学生時代から語学に関心を持っていた原田。その力をさらにブラッシュアップして実務に活かすべく、仕事の合間にサイマルアカデミーやアテネフランセなどの学校に通い、翻訳者としてのトレーニングを受けるようになる。
「会社の仕事に納得できないという思いもあって、ますます翻訳の勉強に力を入れたようです」と、当時の原田の思いを代弁して、妻の惠は語る。
翻訳者として仕事を受けられるだけの力を身に付けた原田はサイマルアカデミーなど複数の翻訳エージェントに登録。昼はサラリーマン、終業後は在宅フリーランスとして翻訳をこなすという二足のわらじで仕事を続けた。
「これからの日本に必要なのは翻訳である」という大きな志と「自分はサラリーマンに向かない」というややネガティブな思いが交錯する中、やがて原田は翻訳者として独立することを決意する。勤めていたゼネラルフーズを退職し、文京区本郷のビルの一室で、現ホンヤク社の前身である東京翻訳社を設立。1972年(昭和47年)2月のことである。
現在もほぼ変わらないが、当初から翻訳に対する顧客のニーズは、「1にスピード、2に質」であった。しかし、当時はインターネットやコンピューターはおろか、ワープロさえも存在しない。文字を入力する装置と言えば英文タイプライター程度。翻訳は、辞書を引きつつ、800字詰めの原稿用紙に訳文を書き込むという地道な作業であり、電子化による効率性向上・スピードアップが図れるようになるのは、まだまだ先の話であった。
設立当初は、原田が営業、制作、翻訳、事務と一人で何役もこなした。しかし、受注が増えていくにつれ、顧客のニーズに応えられない場面も出てきた。そんな時、あるクライアントに納品に行った際、「いつまでも一人で翻訳をやってたら会社は伸びないよ。自分は経営に回らないと」というアドバイスを受けたと言う。
時は1970年代初頭。オイルショックの影響による停滞はあったものの、企業の海外進出が活発になるなど、日本経済の国際化が加速し始めた時代である。翻訳のニーズの高まりとともに、競合他社も増えていく。さらに「数年先には翻訳業務を外注から社内に移行する」と言う大口の顧客も出てきた。「このままでは立ち行かなくなる」と、原田自身も限界を感じ始めた頃であり、翻訳者というプレイヤーではなく、経営者として大きな視点で翻訳業に向き合う転機になったのである。
原田は、会社を法人として組織化し、営業や制作を強化し、翻訳者の教育に力を入れるようになる。1975年(昭和50年)、本社を千代⽥区外神⽥に移転する。