ホンヤク社、そして創設者の原⽥毅を語る上で欠かせないキーワードは「進取の精神」、つまり新しい考え方を貪欲に取り入れる姿勢だろう。
「事業に役に立つ技術は、どんどん取り入れよう」というのが原田の口癖だった。そのため、同業者との会合や見本市には足しげく通い、新聞や業界誌を何紙もチェックするなど、情報の収集を常に怠らなかったと言う。しかし、ただ漠然と新しい技術を取り入れるのではなかった。すべては、顧客のニーズに応え、最適な提案ができるような体制を整えることが目的で、何よりも「顧客の役に立てる存在になる」という企業哲学がそこにはあったのだ。
1990年代に入ると、パソコンをはじめとするテクノロジーが急速に普及し、さまざまな産業に導入されるようになる。翻訳も例外ではなかった。パソコンやFAX、電子メールの登場によって、翻訳業務だけでなく、納品や校正の工程も変化し、効率化されていく。
日本における第一次機械翻訳ブームが起こったのもこの頃である。ドラえもんのひみつ道具の「ほんやくコンニャク」のごとく、ある言語を入れれば、別の言語で出力される機械翻訳システムは、まさに「夢の機械」だと期待された。
原田もいち早く機械翻訳の可能性に目を付けていた。現状の精度は低いものの、いずれ大量かつ効率的な翻訳業務には不可欠なツールになるだろうと考えたのだ。原田は積極的に導入に取り組み、機械翻訳の現況を紹介するニュース番組で、業界の代表者としてインタビューに答えている。
当時は、翻訳は職人という意識が高く、機械翻訳に対して否定的な業界関係者も多かったが、新しいものは貪欲に取り入れようという原田の姿勢がここにも表れている。
30年経った現在、長年の研究の成果と人工知能の進化より、機械翻訳は目覚ましい進歩を遂げている。機械翻訳とポストエディットという工程が標準となった分野もあり、翻訳業界にとっては不可欠なテクノロジーとなっている。
1995年(平成7年)、業務拡張に伴って本社を⽂京区本郷に移転するが、社内のIT環境もハードとソフトの両方で整えていく。
1995年以降は、Tradosなどの作業を効率化する翻訳支援プラットフォームが次々と市場に登場する。これは翻訳そのものを行うのではなく、多言語のローカライズを効率的に進めるためのツールであり、2022年の現在ではほとんどの翻訳エージェントが導入している。これについても、原田はいち早く導入を決断した。
「とにかくやってみる。結果は後からついてくる」というのが原田流のやり方だったと言う。顧客の要望に「できる」という姿勢を示すこと。そのためには、投資を惜しまず、古いやり方に囚われず、流れに飛び込んでいくことが重要だったのだ。
「中には、見切り発車的に進めたものもあったのかもしれません。ただ、この果敢に挑戦する姿勢が会社全体に浸透していったのだと思います」と、現代表の原田真は話す。
こうした企業文化を端的に表しているのが、翻訳業務管理システム「Plunet」の導入だろう。
ヨーロッパの先進的な翻訳産業の状況を知った原田は、視察のため、イタリアやオランダの関連会社に社員を派遣する。帰国した担当者から、翻訳業務工程を管理するシステムについて報告を受けると、躊躇せず「よし、うちもすぐにやろう」と即決したと言う。その後、細かな設計と開発に着手し、翌年には本格的な運用を開始している。これは、翻訳者への作業打診、発注、納品を管理するプラットフォームであり、顧客との取引に直接使用されることはないが、手作業であった工程管理を一元化したことでさまざまなメリットが生まれた。
2022年の現在においても、このような翻訳業務管理システムを運用している翻訳会社は日本では数少ない。ホンヤク社の「進取の精神」を示す好例だと言えるだろう。
2000年代に入ると、ADSLの普及、光回線の登場などにより低価格化が進み、インターネットが急速に広がる。公的機関や企業に限らず、個人も自由に情報を発信できるようになり、情報のデジタル化が一気に進んだ。紙媒体に頼らず、さまざまな知識や情報にアクセスできる環境が広がり、翻訳を含め産業界に大きな影響を与えた。情報技術、いわゆるIT産業が注目を集めると同時に、それに伴う語学サービスへのニーズもますます高まっていった。
2004年(平成16年)4月、原田は、新たにインテック・コミュニケーションズ株式会社を設立する。既存の翻訳業と人材派遣業とは別に、異⽂化コミュニケーション・語学研修・各種ビジネス研修を主体とした会社である。ホンヤク社の「H」、インテック・コミュニケーションズの「I」、マンカインド・アソシエイツの「M」を取り、HIMグループを結成。より優れたサービスの提供を目指し、三位一体の体制を整えたのである。